エホバの証人からの脱会

聖書には統治体は存在しない:使徒9章から28章までの大事な箇所

  一世紀における中央集権的な組織(統治体)の存在を否定するために、次の使徒9章から28章の内から最も重要な箇所を見出してください。

使徒9章

使徒9:1-2:パウロは大祭司のところに手紙を書き、キリスト・イエスの名を求め始めたユダヤ人の信徒を捕らえるための権威を与えるように頼み、それをダマスカスの大会堂に送るように頼んでます。パウロ(サウル)は行動するに当たり、権威が必要だと分かっていました。興味深いことに、彼は宣教するときも手紙を送るときも、一度たりとも、誰にも、何らかの権威付けを依頼していません。
使徒9:10-17:ダマスカスの弟子、アナニア(使徒でもなく、長老でもない)はサウルの上に手を置いた。
使徒9:19-25:パウロはダマスカスでの改宗から3年後、ダマスカスで伝道を始めました(誰にもその権威を頼んでません)。使徒9:1,2と比較。
使徒9:26-29:改宗から3年後、サウロはエルサレムに行きましたがケファ(ペテロ)とヤコブ以外はいませんでした(ガラテア1:17-19)。使徒9:25と9:26の間には三年経過しています。

使徒11章

使徒11:9:初めて弟子たちはアンティオキアでクリスチャンと呼ばれました(エルサレムでではありません)。

使徒13章

使徒13:1-3:第一次宣教旅行:パウロとバルナバはアンティオキアから宣教するために送られました。エルサレムからではありません。そして二人はアンティオキアに戻りました。

使徒15章

 ものみの塔は中央集権的な組織(統治体)の存在を証明するためにこの章を用います。慎重にこの章を読む必要があります。
使徒15:1:ユダヤから来た者はアンティオキアの信徒に対し、モーセの律法に従って割礼を受けてもらいたいと主張しました。
使徒15:2-3:アンティオキアの会衆は使徒と長老たちと話し合うためにパウロとバルナバたちをエルサレムに送ることを決めました。
使徒15:4-5:彼らは会衆や使徒、長老たちから親切に迎えられました。使徒15:6-21:使徒と長老たちは一堂に会しました。おそらくは大勢の人たちだったでしょう。一握りの「級」ではありません。
使徒15:22-29:使徒と長老たちは手紙を書きました。おそらくは大勢の人たちだったでしょう。
使徒15:22:「使徒や年長者たち*,また全会衆は,自分たちの中から選んだ人々を,パウロおよびバルナバと共にアンティオキアに遣わすことがよいと考えた」。これは「全会衆」(男女、兄弟姉妹)がこの決定に同意したことを表すために一致した解決策を作った意味です。エホバの証人の「統治体」が使っているモデルにはなりません。
使徒15:22-29:使徒と長老たちは手紙を書きました。おそらくは多数の人たちでしょう。
使徒15:23:手紙はアンティオキア、シリア、キリキアの異邦人の信徒だけに送られました。パウロが以前に伝道した会衆すべてに宛てたものではありません。
  使徒行伝やほかのクリスチャンギリシャ語聖書には同様の集会や決定はほかに記されていません。エルサレムの使徒や長老たちが書いた手紙もこのほかには書かれていません(「二人の証人」の欠落)。
  他方、パウロが伝道した会衆宛てに手紙を書いたことを知っています(パウロが書いた手紙14通)。
  手紙を送る前にパウロは誰かにその手紙に権威を与えてくれるようにと頼んでいません。
使徒15:28-29:手紙には四つの要求だけが書かれていました。避けることは偶像と血と絞め殺されたものと不道徳でした。それがすべてでした。それ以上、要求はありませんでした。多くの変更される要求を頻繁に送る、エホバの証人の「統治体」と比較しなさい。
使徒15:36-41:第二次宣教旅行:パウロはアンティオキアから開始します。エルサレムからではありません。今回はバルナバは同行しません。「パウロはシラスを選びました」。シラスを連れて行っていいか誰にも聞いていません。誰にも相談しないで「バルナバはマルコを連れてキプロスに向けて出帆」しました。第二次宣教旅行の後、パウロはエルサレムではなく、アンティオキアに戻りました(18:22)。

背景

 エルサレムは自然と特定の問題を処理するための場所になりました。しかしある種、国際的な統治集団の所在地ではありませんでした。問題処理の場になったのはパウロの根拠地であったアンティオキアでパウロとバルナバが遭遇した論争の種はエルサレムから持ち込まれたためです。「エルサレムから下ってきた人たち」が異邦人クリスチャンはモーセの律法に従い、割礼を受けるべきだと強調して論争を引き起こすまではアンティオキアは比較的、平穏でした(使徒15:1,2,5,24)。
 アンティオキアのトラブルメーカーはユダヤ人でした。使徒が居たからだけではなく、このような要因があったためにエルサレムは特定の問題を論じ合い、解決するためにふさわしい場所でした。神から選ばれた使徒の存在も明らかに考慮すべき要素でした。使徒が亡くなり、後継者を残さなかったため、その状況は幕を閉じました。使徒の賜物と権威を持つ人はいません。一世紀の中葉の状況では、今では永続する性質を持たなくなった要因がありましたし、現代には適応できない要因もありました。
 加えて、使徒がエルサレムに生きていたときに使徒パウロは、明らかに国際的な行政の中心地(組織の本部)という意味ではエルサレムには「統治体」があるとは思っていませんでした。パウロは一度もエルサレムの誰かあるいはほかの場所に住む誰かに自分の行為に権威を与えてくれるようにとは頼んでいません(使徒9:1-2と比較)。

9章から28章:大事な箇所

  使徒行伝によれば、会衆はそれぞれ独立して行動したことは明白です(アンティオキアでも、エルサレムでも、ガラテアでも、コリントでも)。誰かからの権威を考慮しないでも独自に宣教が行れました。(パウロも、バルナバも、ヨハネも、マルコも、シラスも、ステファノも、フィリポも)。
「統治体」や中央集権といった概念の話になると、使徒行伝にはその根拠が見出せません。しかし、そういった概念よりも「2人か3人の証人」の根拠のほうが目につきます。
・パウロは大祭司のところに行き、キリスト・イエスの名を呼び求め始めたユダヤ人の信徒を捕らえるための権威を与えるように頼み、それをダマスカスの大会堂に送るように頼んでます。パウロはその一連の行動に権限を与えてくれるようにとはエルサレムの誰かあるいはほかの地の誰かに一度も依頼していません。
・パウロはエルサレムには権威者が居るとは決して思ってません。
・パウロが宣教旅行に送られた地はエルサレムではなくアンティキアからでした。
・弟子たちが初めてクリスチャンと呼ばれた場所はエルサレムではなく、アンティオキアでした(使徒11:26)。
・パウロは改宗の後、エルサレムの兄弟たちに連絡をして「異邦人の使徒」としての権威を与えてくれるようにとは頼んでません(使徒9:15、ローマ11:13)。改宗の後、エルサレムに行くまでには三年が経過しています(使徒9:26、ガラテア1:17-19)。
・キリストはパウロに対しエルサレムに行くようにとは一度も言ってません。パウロが居たエルサレムに戻るのではなく、諸国民や王たちにイエスの名を運ぶためにパウロを送り出しました(使徒9:15)
・キリストはアナニアを介してアンティオキアに行くようにとパウロに指示しました。明らかにパウロはエルサレムに根拠地を置く「統治体」の成員ではありません(使徒9:1-17、22:5-16)。
・パウロはエルサレムに居た人にも、ほかの街の誰かにも、宣教の権限を与えてくれるようにとは頼まないで、3年間、初めての宣教旅行をしています(使徒9:25、ガラテア1:18)。その3年後にもその権限を与えてくれるようにとは誰にも頼んでません。
・アンティオキアに選ばれた者を送るとの使徒15章の決定は@使徒A年長者たち、B全会衆が決めました(使徒15:22)。人間から成る「級」が決めたものではなく、大勢の人たちが「全会衆」とともに決めました。これは「全会衆」が解決策に同意したことを意味します。
使徒行伝15章の会議と手紙は割礼という特定の問題の解決を目的にした、一度限りの会議でした。
・新約聖書にはこのような会議はこれ以外には見つかりません。このように全会衆とともに使徒や年長者たちが送った同じような手紙はこれ以外には書かれていません。エルサレムには権威者が居るとは決して思ってません。
・一方、パウロが多くの会衆にたくさんの手紙を送る際には、送る権限を与えてくれるようにと中央集権的な権威者に対して依頼することなく、手紙を送っています。

 このように一世紀には中央集権的な組織も、「統治体」も存在しません。エルサレムにも、アンティオキアにも存在しません。
 もし四番目の手短かな方法を用いても家族の心が動かないなら、ほかに五番目の「統治体は存在しなかった」の項を選択する道があります。

 

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